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干支とは?/ モビット

[ 1488] 干支 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E6%94%AF

干支(かんし、えと)は、十干と十二支を組み合わせたものである。十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)の略。10と12の最小公倍数は60なので、干支は60期で一周することになる。そのため六十干支(ろくじっかんし)ともいう[1]。中国やアジアの漢字文化圏において、年・月・日・時や方位、角度、ことがらの順序をあらわすのにも用いられ、陰陽五行説とも結びついてさまざまな占いにも応用された。古くは十日十二辰、十母十二子とも呼称した。
なお、日本語で「えと」という場合、ね、うし、とら、う、たつ…の十二支に割り当てられた動物(十二獣)の総称であるかのような用法がよくみられるが、後述するように、「え」も「と」も本来は十干に由来するものであって、厳密には誤りである。
十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10の要素からなり、十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12の要素からなっており、あわせて干支と呼ぶ。
干支はすでに商(殷)代に現れており、殷墟出土の亀甲獣骨からたくさんの干支が日付をあらわすために用いられている。もともと干支は、60進法による紀日・番号・数字であった。殷代ではこれを「十日十二辰」と呼称していたようである。甲骨文には、干名のみで日をあらわすこともあり、祖王の名を「祖甲」「父丁」など、その人に関連する特定の干名で呼ぶ例があることから、十二支よりも十干の方がより基本的であったことが伺える(これについては、殷の天子の一覧 も併せて参照されたい)。
春秋戦国時代に、世界の成り立ちを木・火・土・金・水から説明する五行説が起こって上を母、下を子に見立てて「十母十二子」と呼ぶようになった。さらにそれを幹と枝にたとえて「十干十二支」あるいはそれを縮めて「干支」という表記が定まったのは、後漢代からである。
月や年をあらわすために干支を用いるようになったのは、殷代よりも後世に属する。月に関しては、殷代までさかのぼる可能性もあるが、広く普及したのは、戦国時代以降である。
年をあらわすには、古来、著しい事件や帝王の即位年を基準とすることが多かったが、戦国時代の中ごろになって木星(歳星)の天における位置によって年を指し示すことが考案された。後述のように、この方法がやがて発達し、当初は木星の位置により、次には十二支により、漢代には干支の組み合わせによって年をあらわすことが広くおこなわれるようになった。
1日24時間を十二支に分けるようになったのも漢代である。十二支に対して十二獣を充当することは秦代にもみられるが、文献における初出は後漢代からである。また、「外事には剛日を用い、内事には柔日を用いる」[2]とされたのも漢代であり、これは、戦国時代の陰陽家の影響を受けている。
ただし唐の時代に編纂された兵書である「神機制敵太白陰經」(李筌編)の巻九「遁甲巻」において、夜半、鶏鳴といった時刻名とともに、この時刻の干支は云々と記載されているので、時刻を干支で呼ぶ習慣の定着には長い時を要したであろうと推測できる。
亀の甲羅に書かれた甲骨文(拓本)。複数の卜占のことが記されているが、たとえば、左から3行目冒頭に癸酉と見える。
ある日を甲子とすると、第2日が乙丑、第3日が丙寅というように進んで第60日の癸亥へと進み、第61日に至ると再び甲子に還って日を記述していった。これは、3,000年以上経った今に至るまで、断絶することなく用いられている。また、干支紀日は『日本書紀』など東アジアの歴史書にも広く使用されている。
殷代においては、干支はもっぱら紀日法として用いられ、年に関しては1より始まる順序数(自然数)を使用しており、月に関しても順序数を基本としていた。ただし、月名を十二支で表記することはあったとされる。
なお、現在のような1日、2日、3日…という順序数による紀日法がいつ始まったかはわかっていないが、現在のところ、山東省臨沂県(りんぎけん)から出土した銀雀山漢墓竹簡、および武帝7年(元光元年、紀元前134年)の暦譜竹簡の例が最古とされている。
中国でも日本でも暦はしばしば改定されているが、干支による紀日は古代から連綿と続いており、古い記録の日付を確定する際の有力な手がかりになる。
上述のとおり、月名を十二支で表現することは殷代にさかのぼる可能性がある。古くより中国では冬至を含む月を11月とする習わしがあり、この月を「子月」と呼び、以下12月を「丑月」、正月を「寅月」と呼んだ。
こうした呼び方は戦国時代よりあったが、さらに月名に十干を加えることは唐代にはおこなわれており、その場合の配当は年の干名によって各月の干が割り当てられた。たとえば、寅月についていえば、甲や己の年は丙、乙や庚の年は戊、丙や辛の年は庚、丁や壬の年は壬、戊や癸の年は甲となる。つまり、干名が甲である年の寅月は「丙寅月」となる。詳細は、下表に示す。
紀年法とは、年を記したり数えたりするための方法のことで、中国を中心とした漢字文化圏では年号紀元にもとづく紀年法とともに、60年周期の干支による干支紀年法が併用されてきた。その起源は木星の観測と深い関わりがある。
中国の戦国時代にはじまった。木星は約12年で天球上を一周し、十二次(天球を天の赤道帯にそって西から東に12等分した12の区画)を1年に一次進む。そこで、木星は年を示す星であるとして「歳星」と呼び、木星の十二次における位置で年を記した。たとえば「歳在星紀(歳、星紀に在り)」は、木星が天球上の「星紀」という場所に存在する年という意味である。
木星は天球上を十二次に沿って西から東に進むが、当時の人たちがよく使っていた十二辰(天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分した区画、十二支が配当された)に対しては、運行の方向と順序が逆であった。そこで、木星の円軌道に一本の直径を引き、その直径を境に木星と線対称の位置に存在する太歳という仮想の星を設定し、その十二辰における位置で年を記すようにしたものである。
中国の戦国時代には、この直径は寅の起点と申の起点とを結んで引かれ、たとえば、「太歳在寅(太歳、寅に在り)」という記述があれば、その年は太歳が寅の位置に存在する年、つまり木星が丑の位置に存在する年のことである。その翌年は「太歳在卯」となり、太歳は卯、木星は子に位置する。
さらに、「太歳在寅」「太歳在卯」と記録するかわりに、太歳が位置する各「年」に名称を設けて使用することが行われた。
漢代に入ると、『淮南子』天文訓に「淮南元年冬、天一在丙子」と記述されるように、十干と組み合わされて干支で太歳の位置が記述されるようになった。
この十干(歳陽)と十二辰(歳陰)の歳名とを組み合わせ、たとえば、ある年を閼逢摂堤格とすると、その翌年は旃蒙単閼、第3年は柔兆執徐…となり、第60年の昭陽赤奮若にいたると、ふたたび閼逢摂堤格から始めるという60年周期の歳名とした。
ただし、木星の公転周期は正確には11.862年であるため、実際には一年に一次と少し進んでいることになり、約86年に一次(太歳は一辰)ずれることになる。これを「超辰」と呼ぶ。この超辰によるずれを解消するため、秦の??暦では、太歳を設定するための直径を丑の起点と未の起点に引き、秦の始皇帝元年(紀元前246年)を木星が亥にあり、太歳が寅にある年とする新しい基準を設けた。
前漢の太初元年(紀元前104年)[4]の改暦(太初暦)では、超辰をおこない、丙子を丁丑に改めた。のちに三統暦の補正では超辰は114年に一次ずれると定義し、太初元年を再び丙子に戻し、太始2年(紀元前95年)を乙酉から丙戌へ超辰するとした。これによって三統暦による太歳紀年とのちの干支紀年は太始2年から見かけ上、同じになる。
後漢の建武26年(西暦50年)は、当時使われていた劉?の三統暦の超辰法に従うならば、庚戌を辛亥とすべき年であった。にもかかわらず、光武帝に随従していた学者たちは超辰をおこなわず、庚戌のまま紀年を続けた。さらに元和2年(西暦85年)の改暦では三統暦の超辰法自体が廃止された[5]。これ以後、木星を観測して、その位置で年を記録されることはなくなった。ここに、木星の運行とは関係なく、60年周期の干支を1年毎に機械的に進めていく干支紀年法が用いられるようになったのであり、絶えることなく現在までつづいている。
これは、後代に干支が伝来した朝鮮や日本とも共通であり、たとえば日本の甲子園球場は、完成した1924年(大正13年)が甲子の年にあたることからの命名である。
民間では干支のうちの十二支の部分だけを用い、それに動物を配当した生肖紀年法が今も広く用いられている。なお、広開土王碑と12世紀成立の高麗朝による正史『三国史記』の干支に1年の違いがあるなど、時代や地域によっては必ずしも一定しないことも散見される。
十二支と十二獣[6]がいつから結びつけられたのは不明であるが、1975年に湖北省雲夢睡虎地の秦代の墓から出土した竹簡には既に現在のように動物[7]が配当されている様子が伺われる。
後漢の王充が著した『論衡』物勢篇では、十二支を動物名で説明しており、これによって干支の本来の意味が失われ、さまざまな俗信を生んだ。ただし、日、月、時刻、方位などを干支で示す慣習が廃れた今日でもなお、干支紀年に限っては今なお民間で広く定着している要因ともなっている。日本の風習である年賀状[8]などにも動物の絵柄が好んで描かれているが、下表のとおり、配当される動物には国により違いがみられる[9]。
干支紀年の日本への伝来時期はよくわかっていない。日本に中国の暦本が百済を通じて渡来したのは欽明天皇15年(554年)[10]とされるが、実際には、それ以前にさかのぼる可能性が高い。
埼玉県行田市埼玉の埼玉古墳群の一つ、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣には「辛亥年七月中記」の紀年があり、銘中「獲加多支鹵(わかたける)大王」を雄略天皇とする考えが主流であることから、「辛亥年」を471年とする説が有力である。ただし、これに対しては531年とする反論もある。
一方、和歌山県橋本市隅田の隅田八幡宮に所蔵されている人物画像鏡には、「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿…」という銘文が鋳されており、この「癸未年」は、「男弟(おとど)王」が継体天皇と考えられることから、503年とする見方が有力である[11]。
韓国や北朝鮮では、歴史的事件の名称をあらわすのに干支紀年を用いることが多い。元来、朝鮮半島の諸王朝では元号は宗主国である歴代中国王朝の元号をそのまま使用していた。現代においてそうしないのは、こんにちの中国で元号が使用されなくなり、宗属関係をもとにした国際秩序もまた過去のものとなったためであることは言うまでもないが、それを過去にまで遡及させる方法はナショナリズムにもとづく姿勢と言ってよい。
十二支にも五行が配される。四季に対応する五行は、春が木、夏が火、秋が金、冬は水であり、土は各季節の最後の月にあたり、季節の変わり目をあらわす。土用の丑の日は夏の最終月(土用)の丑の日という意味である。各季節に十二支を配すると、
陰陽五行説が起こったのは、中国の戦国時代であり、?衍の五行思想に陰陽思想が結びついていったものである。これが干支と結びついて干支五行説として天地間の森羅万象における根本原理であると考えられるようになったのである。
上記のように割り当てられた十干と十二支それぞれの五行は、その組み合わせによって吉凶を占うことができるとされる。代表的なものを下に掲げる。
「比和(相勝)」…この関係は、同気が重なるため、五行それぞれの性質を強め、良い場合はますます良く、悪い場合はますます悪くなるとされる。
なお、日本で初めて中国伝来の暦日を遵用して、時刻に十二支を配し、子を真夜中としたのは推古天皇12年(604年、甲子の年)の正月のことであった[12]とされる。平安時代の延喜年間に編纂が始まり延長5年(927年)に完成した「延喜式」でも、宮中の諸門の開閉や日の出、日の入りの時刻について、「申四刻六分」のように十二支を用いて示している。
十干は、五行説によって説明されるようになると五行があらわす方位である五方と結びつけられた。さらに、のちには十二支や、易における八卦を交えて細かい二十四方が用いられるようになった。
十二支では、北を子、南を午の方位としている。経線を「子午線」、経度0度のロンドンのグリニッジ天文台を通る経線を「本初子午線」と称するのは、これに由来する。
十二支が方位と結合していくのは、漢代のことと考えられている。漢代には易の解釈学である「象数易」という学問が隆盛し、そこでは、易の卦や、それを構成する爻に、十二月、十二律(音律)、十二辰(支)、二十四節気、五行、方位などが配当され、きわめて複雑な理論が編み出された。
干支が十二獣や陰陽五行思想と結びついたことで、さまざまな伝承や俗信が生まれたが、日本に伝来すると日本固有のものとも習合して独自の俗信を生んでいった。なかには、申(さる)の日は「去る」と通じるので結婚式をおこなわないなどというものもあった。
数え年の61歳は、生まれた年の干支に戻るので、「暦が還(かえ)った」という意味で「還暦(かんれき)」といい、歳をとる正月には、公私ともに正式に隠居して長寿の祝いをした(東洋にあっては誕生日の概念は乏しかった)。この年齢に達すると親族などが赤い頭巾やちゃんちゃんこを贈るのは、もう一度赤ちゃんに戻って「生まれ直す」という意味合いをこめている[15]。現在は、満60歳の誕生日や60周年に還暦の祝いをすることが多い。なお、半周(30年)のときは半還暦、2周(120年)した場合は大還暦という。
中国では「花甲」、韓国では「還甲」といい、日本と同じように60年の長寿を祝い、無病息災を願う習慣が今も続いている。
辛酉は天命が改まる年とされ、王朝が交代する革命の年で辛酉革命という。日本では、平安時代に政治的変革が起るのを防ぐ目的で、三善清行の提唱によって、辛酉年の昌泰4年(901年)が「延喜」と改元された。それ以来、日本では明治に至るまで、辛酉年と前年の庚申年の2年続きで改元が行われてきたが、中国ではこのような改元例はない。
中国の言い伝えによれば、人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫がいて、いつもその人の悪事を監視している。三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って天帝に日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められるとされる。そこで、三尸の虫が天に登れないようにするため、この日には徹夜しなければならないとされた。これを「守庚申」という。また、中国では、庚申の日には、菜食するのがよいとも言われていた。
日本では、「庚申さま」として庚申の日そのものも神格化された。庚申の日の夜は村人が集まって神々を祀り、その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。これを庚申講という。庚申講を3年18回[16]続けた記念に建立されたのが庚申塔で、今も各地に残っている。
陰陽五行説によれば、丙も午もともに剛強なる陽であって火の性格をもち、中国ではその年は火災が多いなどといわれていた。
それが日本では、八百屋お七が丙午の年(寛文6年(1666年))生まれだという風説があった[17]ところから、丙午の年に生まれた女性は気性が激しく、夫の運勢を圧倒して連れ合いを短命にするという俗信に変化した[18]。しかし、これは男性中心主義の見方であり、迷信俗説に類するものであるが、日本では丙午年の出産が避けられて、新生児の数が他の干支の年よりも少なかったりする(最近では1966年(昭和41年)。その反動もあり、翌年の丁未の年は新生児の数が例年よりも増える)。なお同様に火の重なる丁巳(ひのとみ)だが、これは八専の一つである。
中国の漢代には、正月最初の子の日には皇帝が鋤で耕し、皇后が箒で蚕床をはらって、祖先神や蚕神をまつる行事があったといわれている。
この行事は、古代日本にも伝播しており、正倉院には使用した鋤と箒が現存している。正月初子(はつね)の日に、山野に出て若菜をつみ、若松をひいて長寿を願った行事が、『小右記』にも記された「子の日のお遊び」であり、平安時代の宮中の年中行事であった。
干支相生の日とされた天赦日は、「よろずよし」の大吉日と考えられてきた。春(立春から立夏前まで)は戊寅、夏(立夏から立秋前まで)は甲午、秋(立秋から立冬前まで)は戊申、冬(立冬から立春前まで)は甲子の日である。
選日のひとつ。夏至以降3度目の庚の日(初伏)、4度目の庚の日(中伏)、立秋以後の最初の庚の日(末伏)を凶日とする。庚(かのえ)は「金の兄」で金の陽性であり、金は火に伏せられること(火剋金)から、火性の最も盛んな夏の時期の庚の日は凶であるとする考えに由来している。
漢代には易の解釈学として象数易が流行し、そこでは、易の卦や、それを構成する爻に、十二月、十二支、二十四節気、五行、方位などが配当されて、複雑な理論が編み出された。
特に八卦と干支が結びついて占いに用いたものとして、納甲がある[22]。完成は前漢代の京房によるといわれており、三国時代の呉の虞翻らによって継承された。のちには十二支も易に用いられるようになり、八卦の各爻に干支が当てはめられた。唐の李淳風は『周易元義』で八卦六位図を伝えている。
一方、納音は、干支を陰陽五行説や中国古代の音韻理論を応用し、形容詞を付加して30に分類したものである。生まれ年の納音は、その人の運命を判断するのに用いられた[23]。 納音において凶日とされたのが五墓日であった。戊辰の日、壬辰の日、丙戌の日、辛丑の日、乙未の日がそれで、家作りは構わないが、動土・地固め・葬式・墓作り・播種・旅行・祈祷などは凶とされた。その名から、この日に葬式などを行うと、墓を5つ並べるといって忌むことがあった。
十二直とは、暦注のひとつで、十二支とは別の12のサイクルを月に合わせる形で構成し暦をつくり、その日の吉凶を占ったものである。中国では戦国時代に萌芽が見られ、秦と楚では異なる十二直を使用していた。現代まで伝わっているのは中国を統一した秦の十二直である。十二直は建・除・満・平・定・執・破・危・成・納・開・閉より構成される。
現代において干支占いは、血液型性格分類や占星術と比べてマイナーな存在である。血液型や星座は個人のプロフィールによく記述されるが、干支は記載されないことが多いためでもである。そのせいもあって、干支は血液型や星座などと異なり疑似科学の扱いを受けないことが多い。ただし、近年流行した『動物占い』は誕生日の干支を元にして四柱推命の一部を利用して案出された占いである。心理学者でもあった増永篤彦によって行われた生日の干支において干から支にひいた十二運とある種の性格分類に相関があるとする研究は、動物占いや動物占いの動物キャラクターを別のもので置き換えた様々な占いに流用されている。
現在の日本においては、太陽暦の年に対して干支を適用することが多いが、伝統的には節月(立春から翌年の立春の前日まで)を1つの干支として適用することも多く、一部の占いにおいては今日にも引き継がれている。また中国においては太陽太陰暦(農暦)に対して適用している。
十二支は月と同じ12個なので、月の十二支は毎年同じになる。十干は10個なので、十二支と組み合わせると、5年(60か月)周期で月の同じ干支が繰り返されることになる。
ここでいう月は、「暦月」(1日から翌月1日の前日まで)を適用する場合と「節月」(節気から次の節気の前日まで)を適用する場合とがある。
^ 甲骨を用いた占いには、癸の日以後10日間の吉凶を判断する定期的な卜旬と、開戦・豊作・異常気象の終わりを祈願する不定期的な占いがあった。
^ この年の紀年は、『呂氏春秋』、『前漢書』賈誼伝、『前漢書』翼奉伝、『史記』歴書では、それぞれ乙亥、丙子、丁丑、甲寅となっており、それぞれ流派の異なる紀年が混在していた。前漢末に劉?によって整備が始まり、これが最終的に整理されて完全に統一されるのは後漢初期の元和2年(西暦85年)の改暦であった。
^ 十二獣がなぜ十二支と結びつけられたかには、西方バビロニアの天文学における黄道十二宮が各宮の多くを動物であらわすことから、そこから影響を受けたのではないかとする見方がある。また、これが普及したのは農事暦を農民に教え、浸透させるための便法という説もある。
^ 亥(中国や韓国などにおける猪(ブタ))が日本ではイノシシ、丑がベトナムではスイギュウなどとなっている。なお、日本で「猪」がイノシシをあらわすようになったのは、生肖紀年が伝来した当時の日本では、豚の飼育が必ずしも一般的でなかったためと考えられている。
^ 『日本書紀』巻第19。欽明天皇14年、暦博士を交代し暦本(こよみのためし)を送るようにとの勅を発し、翌年、固徳王保尊が暦博士として来日した記事が掲載される。巻第22には、推古天皇治下の602年に百済僧観勒が来日した記事もある。日本書紀には神武天皇以来の干支が記載されているが、『古事記』にはない。
^ 艮(うしとら、北東)を鬼門とする考えは、とくに日本で深められた。鬼が牛のような角を持ち、虎皮のパンツをはいて具象されるのも、「うしとら」からの連想である。なお、鬼退治のための動物が、桃太郎の伝説ではイヌ、サル、キジなのは、「うしとら」の反対方向が「ひつじさる」で、「ひつじ」の代わりに「とり」「いぬ」が入り、さらに「とり」が「きじ」に代わっていったのではないかという推測もある。
^ 雑節にもとづく暦。雑節とは二十四節気以外に設けられた季節の区切りのこと。本来は、土用は立春前、立夏前、立秋前、立冬前の年4回ある。
^ 「ウ」のつく食べ物とは、丑(うし)からの連想と思われる。ウリや梅干し、ウナギなどであるが、ことにウナギは有名である。実際に牛を食べなかったのは、肉食が憚られる時代には無理だったこと、当時の牛は肉や乳を供するのではなく主として労働力に用いられていたことなどの説がある。

 

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