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知らとは?/ モビット

[ 1085] あなたの知らない照明術 : akiyan.com
[引用サイト]  http://www.akiyan.com/blog/archives/2007/01/post_75.html

私はとくに何も考えずに読んだのですが、読後いてもたってもいられず24時間以内に間接照明器具を3つ揃え、照明リフォームを完了させていました。そしてリフォームの結果に大満足です。費用は約5000円。安いです。照明リフォーム後の部屋を人に見せたところとても好評でした。
ちなみになぜリフォームしたくなったかというと、クリエイティブ脳(=リラックスした状態)になるためには間接照明の空間に身を置くのが有効だからです。直接照明のもとでは単純作業は効率が上がっても、アイデアを練ったりするのにはむいていないのだそうです。
さてこの本、照明術とうたいながら写真は表紙裏のたったの4枚。でもこれで十分。この4枚は本文を読み進めていくと何度も見直すことになるでしょう。それだけ沢山の「技」が詰まっています。
日本にやってきた欧米人に日本の印象を尋ねると、ほとんどが「人は優しいし食べ物は美味しいし、最高!でも、照明だけは我慢ができない」と口を揃えて答えます。
日本の多くの住宅にある直接照明は床を”直接”天井から照らす照明。いわゆる「シーリングライト」と呼ばれるものです。おしゃれなレストランやホテルで見られる間接照明は壁や天井に光を当てて、その反射で”間接的に”床を照らす照明です。つまり、床が明るいかどうかがこの言葉の基準なのです。(p25)
「間接照明?なんか、壁や天井に光を当てたりするアレだよね?」というのは間違ってはないが、床を意識するかどうかが正しい認識の分かれ目。
私たちは、ほとんどが前を向いて生活しています。床を幾ら明るくしても、目線の先は暗いまま。ほんとうはちっとも明るくないのです。ふだんの生活で下が明るくて助かるのは、読書や作業の時。そんなときでも床全体が明るい必要はなく、自分の周りと手元を明るくできれば十分なのです。(p26)
人間は、自分に光が当たると緊張する動物。このことは、舞台や映画館の客席が暗いことからもわかります。観客にステージやスクリーンをくつろいで観てもらうために、客席には光が当たらないようになっているのです。(p27)
映画館などで客席を暗くするのは「くつろいでもらうため」。間接照明を使えば自宅でも同じ効果が得られる。
直接照明の場合、いつも自分に光が当たるうえ、頭の上から光が降り注ぎます。高い位置にある光は、太陽で言うと昼間の太陽と同じ。これは、私たちを無意識に活動的なモードに切り替える光なのです。(p35)
ここ大事。これをおさえればあなたも立派なアンチ直接照明派。いや、直接照明も使いどころは沢山ありますよ。わかっててやってれば、の話ですが。
主人公の”電車男”→アニメやフィギュアをこよなく愛する、いわゆる”オタク”。平凡な彼の暮らしぶりを象徴するように、部屋の照明として、天井に丸いシーリングライトが一つの直接照明。
相手役の女性”エルメス”→寝室にもリビングにも、あるのは高価な照明器具。おもに間接照明でおしゃれにライトアップ。
ここまで気づかなくても、視聴者の印象に残るイメージは、電車男の部屋の場合、青白くのっぺりとした空間。ヒロインの女性の家はオレンジ色の光と影がリズミカルに織りなす豪華な空間。いわゆる庶民とセレブの違いが、青白い光とオレンジ色の光でしっかりと表現されているのです。(p32)
そのほかのキャラクターも、「いわゆる”ひきこもり”の男性」はPCモニタの明かりが青白く顔を照らしてひきこもり感を出したり、「病院で働く看護婦」は映り込む背景が全て青白く照らされていかにも職場を演出していたりと、照明がフル活用されています。
工事いらずで生活の中にカンタン間接照明試しに、スタンドの光を壁のコーナーに当ててみましょう。暗かったときよりも、壁がぐっと広がるような気がしませんか?また、天井に当てると、天井がぐっと持ち上がって高く見えます。(p35)
照明をちょっと変えるだけで、インテリアはもちろん、そこにいる人の気持ちまでがらりと変えてしまう、工事いらずの効果的なリフォームが”照明リフォーム”です。(p36)
照明リフォーム万歳!このあとにソファ周り、棚、植物、絵や壺のライトアップの具体的な説明がありますがここでは省略します。
「光の色」は大きく分けて2種類。1つは朝型や昼間の光の色で青白くさわやか、そして人を活動的にする。もう1つは夕焼けのオレンジ色で暖かみがあって、人に安らぎを与える。
「光の高さ」は3種類。高い位置は昼間の太陽、低い位置は夕日、中くらいの位置は空間を立体的に美しくする。
「光の当て方」は、直接か間接か。あるいは床が明るいのか明るくないのか。どこに(何に)光が当たっているのか。
日本家屋は塀が高いので、玉砂利は地面に落ちた光を拡散反射させて家の中に光をとりこみます。障子はくもりガラス効果で光を拡散し、金屏風は奥の部屋まで光を届ける役割をもっている、と。このあたりの話はすごく面白いです。
私が企業を訪問する際に、「この環境はあまり居心地がよくないぁ」とこっそり思う会社は、だいたい光のケアをしていません。こまめにランプ交換を行っていないために、廊下が妙に暗く感じられたり、オフィス全体のイメージも陰気です。こういった光環境の会社によい印象を持つことは、決してありません。
逆にいうと、どんなに古い建物でも、いつもフレッシュな光に溢れていれば、清潔感が広がり、活気を感じることができます。つまり、その会社がフレッシュな光環境であるかどうかは、働く人や訪問客に対する目のケアだけでなく、やる気や活気、会社のイメージまで左右してくるのです。(p176)
たしかに建物が新しくても蛍光灯がきれかけていたりすると、かなりみすぼらしく見えます。しかし古い建物でもちゃんと明るさを維持していれば大丈夫だというのはすごい。
よく「テレビを観るときには部屋を明るくしましょう」と言われます。映画館気分で部屋を真っ暗にして画面を見ることは、目にとってはNG!!
テレビの画面と周りの明るさに差があると、目が画面の明るさとその後ろの暗い壁の両方に対して調整をくりかえしてしまうので、眼精疲労の原因になってしまうのです。(p177)
映画館は視野全体がスクリーンなので周りの明るさを気にする必要はないと。でも部屋を暗くして観たい!という方は、まずは間接照明で雰囲気を作り、そしてテレビのうしろに灯りを設置して壁を照らして明度差を下げるとよいのだそうです。
ケースをのぞき込んで、他の肉と比較しながら好みの肉をピックアップ、買い物かごに放り込む──これは、明らかにNGです。デキる男は、商品をショーケースから遠ざけてチェックします。
この差は、光のマジックに惑わされるか否か。実は多くのスーパーの食品には、照明でおいしそうな”味つけ”がしてあるのです。(p202)
料理に大切なのは味。実は照明の光は味覚まで左右することが、大学の研究データでも明らかになっています。
光の色でおいしそうに見えるかどうかだけではなく、味覚の敏感さまで変わることは知りませんでした。驚きです。
いいレストランでは客席はオレンジ色の光を多用していてもキッチンからは青白い光がこぼれています。キッチンでは味覚を敏感にさせてきっちり調理しているのです。
多くの家の洗面台では、鏡の上に照明がついています。これが”モテない明かり”。この照明では、目や鼻の下、あごなどに影ができて正確に顔がチェックできません。男性ならヒゲと影をまちがえてきっちり剃れないことも。ヒゲのつもりが肌を削ってしまうのは、この照明のせいかもしれません。
女性でも、暗く見えるところにファンデーションを厚塗りしたり、メークのカラーをまちがえたりすることもあるのです。実際、外出先の鏡を見て自分のメークにビックリした経験はないかと女性に尋ねると、ほとんどの女性がそういう経験があると答えます。(p228)
洗面台が広ければ、スタンドを置いて下から光を。スペースがなければ、クリップライトを棚につけて横や下からの光をふやします。もとからある光が青白い蛍光灯なら、プラスする光は白熱電球や蛍光灯の電球色など暖かい色のものにしましょう。(p228)
多方向から光を当てて、ぬかりなく。ちなみに究極は楽屋の鏡だそうです。私も楽屋でメークをしたことがあるのですが、たしかに上横下すべてに照明がついていました。この光で顔の影を消して、きちんとメークできるのです。
出演者の顔の印象をよくするために、テレビ局でも照明はとても大切な役割を果たしています。スタジオでは、照明担当のスタッフが角度を工夫して綿密に照明の位置を決定。出演者を照らすライトのほとんどが、顔を斜め上から照らしています。真上からだと顔に影ができやすいので、斜め前から当てることで影をできにくくしているのです。
私が以前に司会をしていた競馬番組でも、このライトが活躍していました。ある日、番組のセットがチェンジしたときのこと。プロデューサーが新しくなったセットをモニターで確認しながら、首をひねり唸っていました。「なんで、こんなに違和感があるんだ・・・・・・。すごくマイナー感があるぞ・・・・・・」。そしておもむろに、「あれ!?キャスターライト(下から当てる小さなライトのこと)がないぞ!?急いで発注しろ!」と叫んだのです。
パッとできて、部屋も自分もきれいに見える。これに必要な物はスタンドと布。布をテーブルの上にすっぽりかぶせ、その下にスタンドを置いて点灯するだけ。とってもお手軽なんです。でも効果は絶大です。
部屋を暗くすると、そのテーブルから神秘的な光がこぼれ、異空間にいるような不思議な感覚。ほんのり下からこぼれる光は、そこにいる人の顔をきれいに見せてくれます。顔の下からの照明は、気になるエラやほお骨の影を消し、すっきり細面に演出。しかも目鼻立ちもくっきり見えます。光が強すぎると、顔に変な影ができてしまいますが、布を通すことで拡散した優しい光が肌にパウダー効果を加え、ほんのりと輝く美肌に見せてくれるのです。
超おすすめですのでぜひ手にとって読んでみてください。新書で行間も広めなのでさくっ読めるのにすごい説得力ですよ。
でも商社の人が来た時に言うのが、この会社綺麗なんだけど、なんか落ち着かないね。疲れるよ。明るすぎるんじゃない?悪いけどあんまりここに居たくないよ。って。
私の彼氏はアメリカ人なのですが、日本に住んで3年以上たちますが、蛍光灯の部屋だと病院みたいで落ち着かないと言います。コンビニとか明るすぎてあり得ないようです・・・。

 

[ 1086] わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる
[引用サイト]  http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/

文章読本や入門本、「○○の書き方」サイトを漁っては自己満足に淫する。量は質に転化するとはいうものの、駄文はいくら書いても駄文。カラまわりする向上心のギアをローに入れ、テクニカルな部分―― すなわち、「レトリック」に注力してみよう。
「レトリック」といえば、美辞麗句とか口先三寸とか、たしかに評判はよくない。「それはレトリックにすぎない」なんて、内容ゼロを非難する決り文句だし。
それでも、上手くなりたい。いままでの「書き方」だけでなく、違った彩りや味付けを目指したい。技巧が鼻につくかも恐れもあるけれど、さじ加減を考えて磨きたいもの。ネタ(選書)も大事だが、そのネタを引き立たせるのは技術だ。精進にちょうどいい本を読んだので、(わたしの勉強がてら)ご紹介〜
著者によると、文章の目的は「人を説得するために書くもの/書かれたもの」だという。文章を書くということは一種の説得行為であって、言葉の力に訴えて、読み手の心を動かし、相手から同意(共感)を得ることだという。
これは、文学小説からビジネスレターまで一緒。情感をゆさぶるか、情報を受入れさせるかの違いはあるものの、その前提として、相手の同意(共感)があるそうな。
引用する 大丈夫、ガッコの勉強じゃあるまいし、「覚える」必要ぜんぜんなし。しかも、レトリックの本質を最初に詳らかにしている。言葉の工夫(文彩)とは通常の表現に変化(偏差)を与えることであり、多かれ少なかれ規範を逸脱することである。彩られた文とは「普通とは違う」「度を過ごした」表現のことだ。「移動する」「追加する」はプラスの方向への働きかけであるが、「ほのめかす」「省略する」はマイナスの方向への働きかけである。(中略)「呼びかける」「引用する」も意外なものへ大きく逸脱する方が効果的だ。そう、レトリックとの本質とは誇張すること、驚かすことなのである。 わたしが一番使うのは、「つかみ」やね。ちょっと意外な問いかけから書き始める。内容がブレにくいし、「質問→答え→理由」と文章を組み立てやすい。なぜ女は片づけができないのか?なんて典型だね。
現実よりも大きく、あるいは過度に小さく形容する方法。ポイントは「過度に」で、「嘘っぽい」表現にする。というのも、ホントっぽい「誇張」は嘘と取られてしまうから。「内容が表現を超えている」ことを心がけて書くべし。本書では北杜夫「どくとるマンボウ航海記」や漱石「吾輩は猫」が文例としてある。ああ、たしかに両者ともレトリックの達人やね。
わたしの場合、誇張は意識せずに使っている。ただ「極端」を狙って書いていないので、誤解を招いているという自覚はある。「釘宮病は"誇張"でしょ?」と言われているが、ありゃマジですがな。
「未知のもの」「複雑なもの」「抽象的なもの」をなじみの深い事物に振って、「それと同じようなもの」と説明するプロセス。比喩構造は「三段なぞ」と似ている(カケ、トキ、ココロからなる謎かけだ)。
ポイントは、カケとトキの距離感。離れていればいるほど意外性の驚きは上がるが、離れすぎてしまうと"こじつけ"になってしまう。連想力をはたらかせ、こじつけ上手になると吉。
わたしの場合、メタファーとアレゴリー、擬人法は必ずといっていいほど使っている(それで間を持たせているといってもいい)。試みに「まるで」で検索かけると山ほど出てくるけど、カケとトキの距離は… ありきたりだなぁ。精進するべ。
二つのものを対比関係において、両方の特徴や性質を引き立たせる方法で、ポイントは視点のとり方にあるという。両者の類似性ばかりではなく、差異をひきたたせるのもアリ(聞いて極楽見て地獄)。わたしが意識するようになったのは、漢詩からだろうか。他に、換語法(言い替え)や、訂正法(前文の否定)がある。
この「訂正法」は、わたしの悪いクセだ。自分の文を読み返すと、「○○だがしかし、△△」が非常に目に付く。○○と△△を同じ視線で書くことで調子を整えようとしているのがあざとい。効果を狙って控え目にするか、あるいは別のレトリック手法で代替したい。
全部言わないやり方。半分だけ言って残りは受け手の想像に委ねる上級レトリックやね。finalvent氏が「ほのめかしメソッド」などと揶揄されているが、「極東ブログ」を読む限り、かなりハッキリ書いている(書くべきでないところはそう明言しているし)。「まるで自分のコトを言われてるようで不愉快」だと感じる人は、そういう何かを抱えているからじゃぁないかと。
この手法は、苦手というよりも意識して使っていない。暗喩や転喩、皮肉法が上手に使えるようになったら、このblogもより印象深くなるかと。
いわゆる婉曲表現で、これも使わないなぁ… 露骨な表現(糞尿・性・死)をあたりさわりのない穏やかなものに、移す(隠喩)、ずらす(換喩)、ぼかす(提喩)手立てがあるという。エロいことや残酷なことを生々しく語るのが大好きなので、縁がないテクニックだね。
けれども、ぼかすことでもっと効果的に響くこともある。「肌をゆるす」なんてよりエロティックになるし、「ちょっと話がある」なんて落しどころを考えると面白いかも。要精進と。
これはやるやる、狙ってやるネタだね。くり返すことでリズムが生まれ、独特な文体効果が出てくる。構造的なくり返しもあるし、同音になるように練ったりもする。ことば遊びに堕する恐れもあるけれど、読み手に強く訴えるチカラも持っている。
平行法(A-B、A'-B'と並置して形式美を求める構文の型) これはモノにしたい。読んで心地よく感じる文章は、必ずこのくり返しがある。もともとは、詩歌のリズムからきている技術なので、「対照する」とからめて身に付けたい。漱石(の「草枕」)がレトリシアンとしてベタ誉めされているが、あらためて読むと、たしかにそうかも。再読時は意識してみよう。
手紙の「追伸」を狙う。本文では言い忘れたこと(意図的含む)、言い出しにくかったこと、実はいちばん言いたかったことを追加で書き足す強調表現。日本語は述語が最後に来るのが特徴なので、単調になりがちな文末をバラエティー豊かにするのが、このやり方(他に、修辞疑問、体言止め、転置法も効果的)。文中の傍白(挿入法)、連結語なしでテンでつなぐ同格法のほか、くどくど並べる類語法、心理的誘導を伴う漸層法が代表的。
漸層法の解説が面白い。オンナを口説くときに、いきなりホテルへ連れ込まない。「ちょっとお茶しようか?」→「食事でもどう?」→そして…これが漸層法のキモだという。語句や観念を段階的に強めたり(弱めたり)する文彩で、意識して使ったことは皆無だなぁ。
文を切って引き締め、余情・余韻を狙うテクニック。「春はあけぼの」がメジャーやね。日本語はかなりアバウトなので、文の構成要素を多少抜き取っても致命的なダメージは生じない。「男は黙ってサッポロ」あたりが例として挙げられているが、2ちゃん風なら、「それなんて(ry」でおk。
これは極端!だけど、上手くいったらかなり効果が見込める。分解すると、「省略」+「追加」のあわせ技で、カット&ペーストやね。語順を完全に入れ替えることで、破調を強く意識させる。
ただ、やりすぎると…当然、読んですらもらえない。実験的にやっている本書の例は、真似できないなぁ… 転置法(主述のひっくりかえし)の好例として、村上春樹「海辺のカフカ」が挙げられているが、ああ、たしかに目立つわ、この書きクチ。
いわゆる翻訳文を読みなれていると、自然にこの書き方に染まってくるようだ。通常は主語になりにくい目的格や形容詞にあたるものを名詞化して頭に持ってくる。「読みなれた翻訳文こそが、この書き方に馴染ませる」ってやつ。日本語へのスタンスをちょっと変えるだけで文体が硬質化するのは面白い。
もちろん多用すると鼻につく。村上春樹の実験文体がキライな人の根っこには、案外、アンチ翻訳小説なところがあるのではと勘ぐっても、面白い。
さらに、「移動する」レトリックの極意「奇先法」はヤクロウに入れたい。最初にも触れたが、要するに「つかみ」だ。結論を頭にもってきて、ずばり核心を衝く。最後まで読んでもらえなくても、結論は伝えられる。王道パターンは、奇先を制した後は、理由づけにつなげ、事例を挙げて最後は「ではないか?」と問いかけで締める。理由づけや事例を挙げれば挙げるほど結論への補強となる(逆はこうはいかない、話が拡散したり横道にそれたりするから)。
わたしの場合、読み手や「わたし自身」への問いかけの形をとる場合が多い。心の高揚だけでなく、証人を要請することで説得力を高めることにあるという。(呼びかけを)「な、みんなも聞いたろ?」と見回す感覚かな。
ちょっと特殊な例では、呼びかけ先を擬人化された事物や不在の人にする。「初音」や「名雪」に呼びかけると、その文は強力な印象をもつ(だろうなぁ、やっぱり)。
そして、単に呼びかけるのではなく、問いかけると、次に続けやすい。「このままでいいのだろうか?」→「いやダメだ、なぜなら〜」と、自分で問いかけて自分で答える(応える)。問答法といい、文章にメリハリと躍動感を与えるそうな。
びっくりさせるのではなく、「心地よい意外性」を目指せという。文章に意外性をもたらすといえば、これまでの技のほとんどが相当するが、本書では「驚かす」手立てはちゃんとあるという。音響に訴える言葉遊びと、思考に訴える撞着法・逆接法がそれにあたる。
音響に訴える方法は、語音の連想から他の語をたぐりよせる。一番わたしが欲しいテクは地口。関係のない語を音だけの同一性で力ずくで出会わせる言葉のいたずら。たとえば、「恩を肌で返す」なんてイカしてるが、なかなか使う機会に恵まれないのも事実。
いっぽう、思考に訴える撞着法は、観念の連想をつなげる。言葉の意味はけっこう伸縮自在なので、つなげるとつながる。ポイントは矛盾関係や反対関係にある言葉を"あえて"結びつけることにある。「うれしい悲鳴」とか「やさしい悪魔」なんて、ちょっと目を惹くね。
「たとえば」を使って具体例から主張を補強する(挙例法)や、権威を借りてくる(引用法)はよく使っているが、声喩(オノマトペ)がこれにあたるとは知らなかった。オノマトペについては[エロ表現のポイントはオノマトペにあり]が秀逸かつエロいのでオススメ。文字通りうまく使うと文が「生きる」。
12のテクニックは上の通りだけど、豊富な文例の音のパターンが面白い。練って書いてあるものは声に出してみるといっそうはっきりする。通常では、いわゆる五七調が俎上に上るが、著者曰く、「文字数ばかり数えてみてもことの真相には迫れない」という。むしろリズム(拍)が重要だという。日本語のリズムについて諸説あるが、基本的には四拍子と考えて大過ない。文字二文字で一拍である。言い換えれば、仮名一文字分は八分音符に相当する(ちなみに、「ぎゃ」とか「しゅ」も一文字とみる)。しかしあまり厳密にとる必要はなく、かなりルーズで構わない。定型詩だったら要するに全体で八分音符八つ(四拍子)に収まればいい。 これは音節ではなく、その文章が読まれる時間に着目する。文章が長くなりそうな場合、途中で切ったりテンを打ったりして「区切る」が、その切れ目を四拍子におさえる。わたしが盗むのはここだな。
最初は解説本の顔をしてかいているものの、だんだん筆が回ってくると饒舌になる。「こんなざっくばらんな書き方は、手練れだからできるのであって、ぜったいに真似ないほうがいい」とか注文をつけてくる。その一方で確信犯的に常体に敬体を混ぜてくる(ですます+だ・である調)。どっちだよ、とツッコミを入れながら読める。
漱石、康成、鴎外といったレトリックの天才を並べて読むと、確かに目を開かされるが、太宰がないのは明らかにヘン。学術書ではないので公平性よりも「好み」を優先させたのではないかと。
美文は美食に通じる。ウマイものを食べてなければ、その美味さが分からない。同様に、良い文を読んでいないと、その上手さは分からないだろう。もちろん直感的・本能的に判別できるものもあるだろうが、それを説明したり、ましてや自らの手で作り出すようなことは、不可能に違いない。一流シェフのソースを舐めて、腕を磨くべし。
本書で例示・オススメされて読む気になったものを以下に挙げる。既読もあるが、レトリックに着目して再読するつもり。動機が不純って? そうかもー佐藤信夫「レトリック感覚」「レトリック認識」 : 二つ合わせて15の主要文彩が取り上げられている。軽妙な語り口で読みやすいが、内容は高度とのこと。パラ見したが、解説に力点をおいている。いっぽう、「レトリックのすすめ」は文例のバリエーションと量を追求している
佐藤春夫「退屈読本」 : 日本語のレトリックを吸収するのに最適。上下巻とあるが「上」にいいものがあるそうな
森鴎外「即興詩人」「澀江抽齋」「サフラン」 : 簡潔な日本語のお手本そのもので、短い文のリズムを体得する格好の素材だという
谷崎潤一郎「陰影礼讃」「恋愛及び色情」「私の見た大阪及び大阪人」「東京を思う」 : 短文のお手本が鴎外なら、長文のそれは谷崎から盗める。一文が長いのに息切れしない技は、補語や換語法をタイミングよく使っているから
石川淳 : 絶対に真似ることのできない文体。独特の呼吸、リズムは名前を伏せて読んでも作者を名指せるのが石川淳だと大絶賛する。激しく同意。全読していないので、レトリックを学ぶために全集に挑戦してみるか
特に現国は単純だ。なぜなら、出題文【だけ】が範囲であり、書き手の思想や主張がよく分からなくても、「正解」は出題文+問題文に表れているから。「例の方法」が役立つのはそういうわけ。
そのため、問題文や選択肢を先に目通しして、それから俎上の文章に取り掛かる。なぜなら、どこを読めば「答え」が得られるか、問題文に書いてあるから。現国は機械的に解ける。出題者が「答え」にさせたいものを探してつなぐパズルなのだから。そこではむしろ「自分」こそジャマだ。だれも「わたしの考え」なぞ求めちゃいないから。
そういうトレーニングを積んで、テスト【だけ】良い点とってたわたしは、アタマガツンとやられた。出題文を徹底的に読み込んで、懐疑して懐疑して、懐疑する自分も疑ってかかって、「誤読」を見つけ出す。
誰の? それは、出題者の、解答者の、解説者の誤読だ。さらに最初の文章を書いた人の誤読まであぶりだし、最後には自分自身(この本の書き手、入不二基義)の誤読も暴く。こんな綿密な読みは、おそろしく緊張させられる。
まず、出題者の誤読。いわゆる正答(=出題者の読み)を見抜いた後、その「誤読」を"問題文"からあぶりだす。つまり「出題文の書き手の意図が「読め」ているなら、こんな"問題文"にはならなかったはずだ、と。出題者はなまじ知ってるだけに、分かったような気になる「知識による予断」から誤読に陥ると指摘する。もちろんこの本の書き手は知っている、入試のなんたるかを。それでいてこんなに綿密に読んでいる。ただし、このように答えた場合、私の答案は、きっと「0点」だろう。入試現代文は、「真理に接近しようとするゲーム」ではなくて、「出題者の意図する答えに迫ろうとするゲーム」なのだから。 出題者だけではない。予備校の解説者の「誤読」をも分析する。駿台の青本(今はこんなのがあるんだね)に手厳しい。細部の読み誤りにあるのではなく、読み以前のスタンスに問題ありと断ずる。つまり、あらかじめ人生論的な読みの「構え」のようなものを持っており、出題文をムリヤリそれに当てはめて読もうとするという。「哲学とは人生論や生き方の問題のことだと誤解しているのかもしれない」と容赦ない。
出題者、解説者の誤読を解剖したあと、タネを明かす。出題文で『カット』された部分を引用し、ほんとうの結論はこうだよ、とね。ふつう、入試の文章の前後はカットされている。問題の難化を防ぐためや、問題作成の便宜上あたりまえに行われている。これにツッコミを入れる。このカットにより、書き手の論点の方向性を隠蔽してしまっているとね。
そうして全部を明らかにしたあと、最初の文章の書き手に迫る。これまでの安定した読みを捨て、(カクシンハン的な)自らの「誤読」というやり方で、書き手の意図をも超えて読んでいく(生産的な誤読)。そして、書き手の主張と論拠を使って、書き手自身の「誤読」に迫る。綱渡りのような論拠と論考の連続に、呼吸するのが苦しくなる。相手の武器を使って倒す、一流のアサシンのような「読み」につきあわされ、思考メーターがレッドゾーンに突入する。
――というわけで、新書なのに執念深く読まされた。最後までいったら、最初の問題に戻ってみるといい。出題者がどういう「読み」を意図しているか、背中ごしによく"見える"。「物自体」を知らなくても『体験』できる。高速道路からたったいま下りてきたような脳になる一冊。
愛し合う男の、女の言葉の端々でクンデラの視線とぶつかる。10年前に読んだとき感激したのは、「愛」の字義しか知らなかったからじゃないかと自問。だから、ただひたすら、うつくしい性愛の小説として読んだ。
どうやら、これはわたしだけじゃなさそうだ。同名の映画なんてまさにそうで、「プラハの春」を歴史背景にメインのカップルを鮮烈にエロチックに描いている。「クンデラ=性愛」にバインドされちゃってることについて、こんなアネクドートがある(ネタ元は[文学全集を立ちあげる])。イギリスの批評を読んでたら、こんな一節があって、うまいなあと思ったの。「昔は何か猥本を読みたくなると、『さて、フランスの小説でも読もうか』と言ったもんだ。今はそういうときに、『さて、チェコの小説でも読もうか』と言わなければならない」という書き出しでクンデラを論じるのね しかし、たくさんの時間が通り過ぎ、自分の中で「愛」を実行できるようになって初めて、メインテーマは性愛じゃないことに気づく。
亡命先で恵まれた生活をしているのに、あえて弾圧下のプラハに戻ったのはなぜか? 彼のもとを去った恋人のためか? 彼女を自分の人生に引き入れた責任(=重さ)のためか? 偶然の出会いから始まって、必然に向かってからめとられていく男と女、初読のときはそこばかり目が行っていた。そう、映画の影響もあった。メインの男女の情交やら会話ばかり追いかけていた。「存在の耐えられない」とは、どんな「存在」かと問われれば、迷わず「愛」だと思っていた。
ということは、10年前のわたしは、冒頭のニーチェの永劫回帰の件をまるで読んでいなかったことになる。世界は一回きりではなく全ての瞬間がまったく同じに永久的にくり返されるのならば、何気ないしぐさのひとつひとつがとてつもなく重い存在感を発しはじめるのに…だが、本当に重さは恐ろしく、軽さは美しいのだろうか? ―― これに自答するため、この小説を要したんだね。「愛の重さ/軽さ」の物語としても読めるし、感情に任せた決断と、人生の一回性への重さ/軽さのプロパガンダとしてもいい。
そう、ニーチェの永劫回帰に反するかのように、「人生はいちどきり、選びなおすことはできない」と主張する。面白いことに、著者が突然、地の文に出てきては、登場人物の判断を評価したり、ちゃかしたり思いやったりする。
いっぽうで、それぞれの人生のイベントを先回りするかのように読者に告知するクンデラ。著者は、行動(ストーリー)ではなく主題に小説の統一性を求めようとしているからだ。年代的な因果関係を追いかける通常のリアリズム小説とは違って、登場人物がどのような運命に向かっているのかを予め知らされた形で「受け入れる」ことになる。たとえ抗いがたい運命だとしても。その結果、ただ一度きりしかない人生が、幾度も繰り返されているかのような幻視をもたらすことになる。
人生が一度きりなら、そして予め確かめるどんな可能性もないのなら、人は、みずからの感情に従うのが正しいのか、間違いなのかけっして知ることがない。それでも彼・彼女はよく考えたり感情的になったりして、かなり重要な決定を下す(あるいは下さない)。結果が偶然なのか必然なのかは、わからない(著者は指し示すだけだ)。肝心なのは、その「決定」だ。結果によって「決定」が運命になったり偶然に扱われたりするのなら、未来によって選択の軽重が決まってくる。結果は重いかもしれないが、決定は(決断すら思い及ばず偶然の連鎖も含めて)下されるそのとき分からない。
だから、未来からの重みを感じれば、人生の一回性はとてつもなく重要に感じ取れるだろう。反対に、決定に重みを与えている未来はくり返せないことが分かった瞬間、あれほど重荷に感じていた人生が、うんと軽く、そう、空気よりも軽くなるに違いない。うだうだと書いたが、「存在の耐えられない軽さ」とは何か、クンデラはもっとスマートにエロティックに述べている。だが、本当に重さは恐ろしく、軽さは美しいのだろうか?このうえなく重い荷物は私たちを圧倒し、屈服させ、地面に押しつける。だが、あらゆる世紀の恋愛詩では、女性は男性の身体という重荷を受け入れたいと欲するのだ。だから、このうえなく重い荷物はまた、このうえなく強烈な生の成就のイメージにもなる。荷物が重ければ重いほど、それだけ私たちの人生は大地に近くなり、ますます現実に、そして真実になるのである。逆に、重荷がすっかりなくなってしまうと、人間は空気よりも軽くなり、飛び立って大地から、地上の存在から遠ざかり、もうなかば現実のものではなくなって、その動きは自由であればあるほど無意味になってしまう。 ついでに、旧版と訳の比較してみよう。以下は、1992年に出た初版からの引用。だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?その重々しい荷物はわれわれをこなごなにし、われわれはその下敷になり、地面にと押さえつけられる。しかし、あらゆる時代の恋愛詩においても女は男の身体という重荷に耐えることに憧れる。もっとも重い荷物というものはすなわち、同時にもっとも充実した人生の姿なのである。重荷が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、いっそう現実的なものとなり、より真実味を帯びてくる。それに反して重荷がまったく欠けていると、人間は空気より軽くなり、空中に舞い上がり、地面や地上の存在から遠ざかり、半ば現実味を失い、その動きは自由であると同様に無意味になる。 ねっ、新訳のほうが読みやすいでしょ? 昔読んだよ、という方にもオススメ。違う「読み」になるはず。
ただ、世界文学全集にこの作品が入ったことは理解に苦しむ。クンデラは全読しているが、最高傑作は「不滅」だ(断言)。知名度が優先されたのか、単に選者が読んでいないか分からないが、本書にハマった方は、「不滅」をどうぞ。なぜなら、「不滅」の方こそ、存在の耐えられない軽さそのものを論じているのだから。
その傾向から察するに、新本格や叙述ミステリを好む方が多いようで。何をもって「極上」とするか、人それぞれで興味深い。「面白い本を探すには、まず読み手から」メソッドに従えば、興味を惹く「本」ではなく「読者」が得られたと思う。「わたしが知ってるスゴ本をオススメしている人」であれば、追いかける価値充分だろう。
回答から厳選した、まちがいなく面白いと断言できる作品は以下のとおり。文字通り、わたしが知らないスゴ本ですな。読みなれた方なら、「未読だけど地雷」なのが臭うでしょ? 同様にこれらは、未読だけどスゴ本+徹夜小説だねッ
これらは、「明日の予定がなく、かつ、誰にもジャマされない夜」のために、楽しみにとっておこう(一番タイヘンなのは、そんな夜を捻出することなんだけど)。おそらく、いや、まちがいなく、ミステリ・ベスト・オブ・ベストの順位は変わるはずだ。
余計な装飾やこむずかしい用語を追い払って、「結局こういうこと」を話し言葉でまとめている。ネットはどうなる?会社ってなんだろう?株ってもうかるの?プライバシーってそんなに大事? そんな疑問を「要するに」でバッサリ斬る。
あにはからんや、雑誌に書いた小文を集めたもので、書き下ろしではないとのこと。それなら山形浩生オフィシャルにぜんぶある。未読の方は、次の文章を読めば雰囲気がつかめるだろう。
すごいなぁ、と思うのは、その切り口。もちろん彼より巧みに言辞を弄する論者はいるんだが、掲載年を見て欲しい。どれも10年ぐらい前に書かれているんだ。「たかる社会にたかる人々」なんて、自殺をテーマにしているにもかかわらず、年金問題というカタチに化けている。考えてみればなぜ社会は年寄りなんかを養うんだろうか。役にたってないじゃん。なにも有意義なことしてないではないの。自衛隊やODAは無駄かもしれないけれど、年寄りを養うのだって無駄じゃないの。これに対するはっきりした回答ってのは実はない。役にたたなくなっても養ってあげる――そういう約束でむかし働いてもらったから、というのが一つ。そしてそれをみせておくことで、いまの人たちを働かせようというのがもう一つ。そしてもちろん、社会の力を年寄りが握っていることが多いので、というのがもう一つだろう。ただ、これは年寄りが役にたたないということを否定できるものじゃない。 今じゃミもフタもなく言い放つ人がいるが、当時からそういう慧眼を持つ人はすくなかろう。手から口への売文家ではなく、もうちょっと息の長い視線で書いており、時代の波に洗われても残る部分がどの文章にもある。
もちろん、昔たてた予想がまるっきり外れてしまったものもある。それも正直に、(誤りを認めた上で)載せている。書籍化にあたり、自分に都合の悪いとこを削って口を拭っているどこぞの御仁とは偉い違う。
掲載誌によって読者ターゲットはぜんぜん違う。サービス精神旺盛(?)なのか、読み手のレイヤーに合わせて書いているので、一気に読むと乱降下・急上昇して気持ちが悪くなる。編者がまとめようと苦心した跡は見えるものの、レベルもテーマもバラバラ感は否めない。本業と翻訳業で超のつく忙しさの中で書いているので仕方ないんだろうな。この人が、たっぷり時間と取材費を使って書いたものを読みたい。
そして鉄道人たちは、どのようにして世界一の正確さを実現させているのか? 「定刻発車」をアタリマエとする文化とそれを支える巨大システムについて、真っ向から取り組んでいる。
切り口が非常に面白い。鉄道サービスのサプライヤ側の技術紹介に閉じておらず、歴史や地勢、文化の面からの目配りも効いている。定刻発車がなぜアタリマエなのか? といった根源的な問いは、鉄道という枠を越えて日本社会論まで踏み出している。
まず、「定刻発車」の源は江戸時代までさかのぼる。不定時法とはいえ全国規模の時報システムを持ち、「一刻」とか「半刻」とかいう時間感覚を持っていたことは大きい。あの頃から時刻に敏感な国民性だったんだね。
さらに、参勤交代制が日本の「駅」のありようを決めたという。人が一日で歩ける距離をベースに「駅」の間隔は決められ、日本の都市は鈴なりになって発展する。その結果、日本の鉄道の駅間は短く始まった。
では、なぜ駅間が短いと、時間に正確になるのか? ここからシステムの話。駅がたくさんある = 発車時刻がたくさんあるということ。つまり、時計をあわせるタイミングが多ければ多いほど、正しい時刻に近づくチャンスがそれだけ多くなる。さらに、停車時間バッファや待避線といったハードウェアが、駅そのものを鉄道システムの安定化装置にしているという。
もちろん、驚異の運転技術や、それを支える精密な「運転線図」の完成度、人の動きを波動としてとらえる需要予測のきめこまやかさといった、提供側の観点もみっしりとある。鉄道好きにはたまらないところ(というか常識?)はここだね。
ただ、毎日まいにち満員電車で非人間的な扱いを受けてる社畜の一匹として、著者からはヒトゴトのような視線を感じる。鉄道事業の様々な現場を取材してきたことは分かるが、(むしろだからこそ)鉄道会社側の視点で利用者を「マス」として眺めつづける。
新宿駅の山手線内回りホームの描写が印象的だ。ラッシュアワー時の乗降時間はわずか30秒。20箇所の乗車位置に3列×20人が並び、列車の進入に合わせて駅員が階段の通行を笛で誘導する。開くと同時に鉄砲水のようにドッと押し出される乗客(10秒)、整然と乗り込んで行く乗客(10秒)、押し屋とはぎ取り屋と切り屋(列を切って次の列車に誘導する)が活躍する(10秒)様が上手く描かれている。そして、「ドア閉まります。駆け込み乗車はおやめください」。発車合図の音楽が鳴り、満員電車の中の乗客たちは体を奥に押し込め、一瞬、息を止める。その一瞬にあわせるようにして、「ドア閉まります、ハイ、閉まります」。ドア口の駅員は、乗客の服や鞄がドアに挟まれないよう、ドアの縁を両手で押さえながら、ゆっくりとドアを閉じさせる。 うん、確かに息とめて体ちいさくしてる。よく見てるよなーと思う一方で、書き手は観察者の位置から動かず、したがって「一瞬、息を止める」ことはしないんだろなーとつぶやく。
一口に「乗客」といっても、思い立ったときに足代わりに「乗る」書き手と、毎日決められた時間にバッテラ寿司並に「押し潰される」ヘビーユーザーとの違いはかなり大きいかと。
たしかに、膨大な人の流れをさばく鉄道関係者からすると、人はマスであり電車一両に詰め込まれた不特定多数の塊だ。そこには個人として人をとらえる視線が抜けている。
しかし、情報技術の革新によりマスの中に一人一人の顔が見えるようになってきた(Suicaなんて典型)。著者自身が指摘するところだが、鉄道企業の発想が「乗客の流れ」を把握することから、「乗客の満足度」を感じる方向転換になっているらしい。
[満員電車がなくなる日]にもあったが、これからの列車は軌道回路方式から脱却するようだ。従来は軌道回路で行っていた列車位置検知を、デジタル無線で行う方式[ATACS]にパラダイムシフトするという。著者は「列車ロボット」と読んでいる(言い得て妙)。列車ロボットには「視覚」・「運動神経」・「ハンドル」がつき、線路の上を車間距離をとって、自動車のように「ハンドル」を切りながら自由に動き回る。システムの並列化が進み、ドミノ倒しのように瞬時に遅れが拡散・拡大することもなくなる。快速列車も急行列車も分岐器を自分で動かして、普通列車を追い抜いていき、速達性も高まる。乗客が多ければすぐさま列車を増発するので、混雑列車をなくすことができる――とレポートしている。すげぇ…夢のようだ…が、ずいぶん先だろうな。
ともあれ、鉄道会社が全力で「定刻発車」にこだわっていることは、よくわかった。そして、鉄道のリズムそのものが日本社会に組み込まれていることも――中の人塊がどう思っているかは別として。
1988-2008年の過去20年でもっとも面白かったベスト・オブ・ベスト。だいたい予想のつく顔ぶれだ。これを見習って、本書からマイベストを選んだ。ミステリの定義は長話になるので、本書でランキングされているものとする。「なぜコレが入ってないッ!」ツッコミは当然のこと、「それがスゴいならコレを読め」はいつでも募集中ですゾ。はてなユーザーは「極上のミステリを教えてください」から回答していただくとポイントを振舞いますゾ。
以下のとおり、古いメンツばかりなんだが、どれも鉄板のオモシロさを保証する。そういや、最近ミステリミステリしたやつを読んでいないかも。
綾辻も島田も京極も桐野も入ってないし、アーチャーもクランシーもル・カレもクック(トマス・H・クックとロビン・クック)もコーンウェルも入っていない。ベスト100なら間違いなく入るだろうが、このリストがわたしの「シュミ」なんだろう。
ベスト・オブ・ベストの頂点はコレ。「このミス:ベスト・オブ・ベスト」もNo.1になっている。全読していないけど、宮部作品のマイベストもこれ。
いきなり話中に投げ込まれ、わけもわからず追いかけているうちに、物語が立ってくる。切れそうな糸をたぐりながら見えてくる凄惨な過去にゾクゾクする。緻密なプロットに浮き彫られる女の生きざまを哀しむ。
学校で保健体育の授業はするのに、借金のやり方とその返し方を教えないのはおかしい。借金地獄は自動車事故と同じくらい身近かつ深刻な話なのに。「正しいお金の借り方・返し方」は、中高校の必須科目にするべきだろう。特に「お金が返せなくなったときの対処」なんて、現実にそんな状況に陥ってあわてて求める。耳障りのいい「金融リテラシー」よりも、中高生は本書と「ナニワ金融道」を読んでおけと。
サラ金の中の人のお仕事は、お金を貸すことではなくて、お金を返してもらうこと。アイフルねーちゃんに見とれていると、忘れてしまうのかね。
ハイジャック、バスジャック、原発ジャックとあるけれど、一番おどろいた「ジャック」はこれ。なんせダムジャック。日本最大の貯水量を誇るダムが、完全武装のグループに占拠される。職員とふもとの住民を人質に、50億円を要求する。残された時間は24時間、荒れ狂う吹雪はダム周辺を巨大な閉鎖空間にする。
映画だとオダユージの超人アクションばかり目に付くが、小説はミステリー色が濃い。○○ジャックの原則「どうやっての受け渡しをするのか?」「どうやって脱出するのか?」を鮮やかに料理している。ダム周辺を一種の密室ミステリーとしているとこがユニーク。
ラストで泣いた。涙腺弱いことは分かっているが、こういうのに特に弱いのよ。ええ、もちろん映画はタオル持って観た。
容疑者が完全に自白することを隠語で「落ちる」と言うが、全てを白状していない状態が「半落ち」。では、彼がしゃべらない(しゃべろうとしない)のは何か。そして、なぜ語らないのか、警察に出頭し、自らの罪を認めているのに―― と、コアの秘密をさまざまな角度から切り込む。そして、それぞれの断面から見える暗部は、そのまま社会の傷口のようだ。
その一方で、名だたる人が「くだらない」と断罪しているのは残念。シュミの違い云々ではなく小説としてダメという方も。どういう警察小説を評価されているか、ぜひご教授願いたいものだ。
でも大丈夫、「屍鬼」はスゴい分量ながら、ちゃんと終わっている。というのも、S.キング「呪われた町」のオマージュとして日本を舞台に書いているから。誘導の仕方とオチも似通ってくる。「終わり方」さえちゃんと決めて書き始めれば、これほどページをめくらせる小説家はいないだろうね。
――と、フロシキをたためなくなったやつは置いといて、本書は、田舎の村で起こる、尋常でない何かを圧倒的に徹底的に描いている。京極夏彦氏の評がズバリなので紹介する。物語が怖い。展開が怖い。キャラクターが怖い。描写が怖い。フレーズが怖い。テーマが怖い。完全無欠。逃げ場なし! これはミステリじゃねぇ!ツッコミご勘弁。「このミステリがすごい!もっとすごい」のベスト・オブ・ベストにS.キングの「IT」がランキングされているぐらいだから。どろり濃厚ホラーをどうぞ。
ストーリーがどうというより、リズムがイイ。読む行為がキモチイ逸品。謎解き・犯人探しがあるが、これは「ミステリというカタチ」にするためのおまけに見える。あたかも、Keyのエロシーンがエロゲにするためのおまけに見えるかのように。
バイオレンスとしてもノワールとしても読めるし、ビルドゥングスロマンにしたら乱暴だろうか。異端かつ異形の問題作という賛辞だか罵倒だかワケわからない評のされかたをしているが、好みがハッキリ割れるだろうな。ネガティブ評価をする人は、ゴタクを並べるんじゃなくて、ハッキリ「キライだから」と言やいいのにね。amazonレビューはこんなカンジ。小説界を席巻する「圧倒的文圧」を体感せよ!腕利きの救命外科医・奈津川四郎に凶報が届く。連続主婦殴打生き埋め事件の被害者におふくろが? ヘイヘイヘイ、復讐は俺に任せろマザファッカー! 故郷に戻った四郎を待つ血と暴力に彩られた凄絶なドラマ あ、でもこの一品だけでおなかいっぱいかも。
これも疾走感あふれる小説なんだけど、方向がナナメ下なんだ。スピードに乗ると浮力や飛翔力を得るんだが、これは逃げのびるための速度がダウンフォースを生んでいる。凶暴性と鬱屈した感情に囚われ、一切を信用しないアウトローが新宿歌舞伎町を逃げる話。エロヘンタイを混ぜれば「溝鼠」(新堂冬樹)に化けるだろうが、そんなこっけいなゆとりは、ない。冷えびえとした展開に生への執着心を熱く感じ取れる。
「おれはだれも信用しない」とうそぶきながら、そもそもそんなトラブルに巻き込まれたのは、そうした自分に嫌気がさして、ふっと態度を変えたからじゃァないかしらん。オンナは鬼門であるし玉門にもなる。
このテのやつに慣れるのは嫌だけれど、ひとつ挙げろというならコレ。他を挙げてしまうとネタバレになるので自重。ご興味のある方はネットを漁らないように。同じ理由で、amazon紹介文だけを引いておく。美少女を殺害し、研ぎあげたハサミを首に突き立てる猟奇殺人犯「ハサミ男」。3番目の犠牲者を決め、綿密に調べ上げるが、自分の手口を真似て殺された彼女の死体を発見する羽目に陥る。自分以外の人間に、何故彼女を殺す必要があるのか。「ハサミ男」は調査をはじめる
読後のヘビー感がだらだらと長引く(凹む)劇薬小説として紹介される。救いのない展開と、緻密な伏線が最悪な読後感を生みだす―― という触れ込みで読んだけれど、確かにそういう効果あり。ミステリとして夢中になって読んだあと、エア・ポケットに落ち込んだような喪失感に浸れる。
叙事的ノワールとでも名付ければいいのだろうか。伏線の回収スピードと「謎」の明かされ方が微妙にズレていてもどかしい。どうしてそんなことをするのか? という疑問はずっとつきまとい、ラストの(爆発しない)カタストロフにつながる。その疑問が解消されたかどうかは、読者自身が判断するほかないが、切ないねぇ。1973年に起こった質屋殺しがプロローグ。最後に被害者と会った女がガス中毒死して、事件は迷宮入りする。物語の主人公は、質屋の息子と女の娘だ。当時小学生だった二人が成長し、社会で“活躍”するようになるまでを、世相とともに描ききる。2人の人生は順風満帆ではなく、次々忌まわしい事件が降りかかる…… これだけのボリュームにする必要性はともかく、読ませるチカラがある作家。一気読みでしたな。
心の基本的な何かを最初から持ち合わせていないような人は、いる。ただ、外見やしぐさから読み取れないのが怖い。文字通り「何を考えているか分からない」=「何されるか分からない」怖さ。
見方を変えると、理由さえ明らかになれば怖さはなくなる。怖いのではなく、危険になる。彼女の場合はソコにとどまらず、とてつもなく危ない存在になる。欲望をストレートに行動にうつす彼女をある意味うらやましく思う。映画も秀逸で、大竹しのぶの台詞「乳しゃぶれー」は絶品。
「ミステリーじゃねぇじゃん」ツッコミ上等。たしかにメインの柱は「物語」だね。しかし、この入れ子構造のあるディメンジョンは、キッチリとミステリーに仕立てられている。
―― 1798年のカイロ。惰眠を貪るイスラムの都に、ナポレオンの艦隊が侵略してくる。噂が毒気のように広がる中で、権力者に仕える高級奴隷が、ある術計を主人に進言する。「敵に一冊の書物を献上する」―― その書物は、読む者を狂気に導き、歴史さえ覆す「災厄の書」と呼ぶ――
物語の中に物語があり、そのまた物語の中に… と物語そのものが迷宮化されており、一番の読みどころ(迷いどころ)はここにある。ミステリーとしての「謎解き」は薄いかもしれないが、奇想天外な物語+ラストで読者をびっくりさせるので、ランキング入り〜
ここまで手広いと大味になったり拡散しちゃいそうだけれど、すばらしく上手くまとめあげている。良い意味での「ハリウッド映画のような小説」。amazonレビューはこんなカンジ…ボブはヴェトナム戦争で87人の命を奪った伝説の名スナイパー。今はライフルだけを友に隠遁生活を送る彼のもとに、ある依頼が舞い込んだ。精密加工を施した新開発の308口径弾を試射してもらいたいというのだ。弾薬への興味からボブはそれを引受け、1400ヤードという長距離狙撃を成功させた。だが、すべては謎の組織が周到に企て、ボブにある汚名を着せるための陰謀だった… 後半のご都合主義的な展開に云々するよりも、エンターテイメントとして超一級なので、寝るのを忘れて読める読める読める。主人公 vs 特殊部隊100人の銃撃戦が鳥肌たった。ページの間から硝煙の匂いと兆弾の残響がただよう、オトコくさーい小説。
「読み始めれば、徹夜を覚悟するだろう」帯の文句に偽りはない。ホントーか? と半信半疑で手にとって読み始め→警告どおり徹夜を覚悟し→結局一徹で読み通したスゴ本。二転三転する状況と、最後まで目を離せない展開。
美人検事補が全裸の絞殺死体に → 本来なら捜査の主体である主人公(検事補)に容疑の目が向けられるねじれた状況と心理描写が面白い。丁丁発止の法廷シーンは臨場感あふれるそうな(なんせ現役の検事補が書いてるし)。読み終えたいま、全ての謎は明かされているけれど、もういちど読み直したい。それは、権勢欲、出世欲、金銭欲、所有欲、性欲、あらゆる欲望の渦巻く複雑な人間ドラマがあらわにされているから。わたしが小説を読むのは、そこに欲望を見出すことで、自分のソレを確かめているから。
ねじくれてゆがんだ黒い嘲笑(わら)いに襲われる。見どころはモラルのかけらもない主人公「おれ」。人口1280人の田舎町の保安官をやっているんだが、こいつがとんでもない悪党ときたもんだ。職権をいいことにやりたい放題する究極のエゴイスト。窮地に陥ると悪魔的な機転を利かせて立ち回り、巧妙に人を陥れる。「自分勝手のマヌケな保安官」と笑って読んでいたのが、行き当たりばったりの罠に次々と人をハメてゆくのを見るに付け、だんだん恐ろしくなってくる。語り口がざっくばらんで、いかにもオレサマでいけすかない奴なので、読み手も一緒になってナメていると、読者も罠に陥ることに。
テーマは「暗号+歴史+陰謀」を重厚に描いているにもかかわらず、非常に読みやすい。分かりにくそうなところは、わざとキャラのもの分かりを悪くさせて教師役に「解説」させる親切設計。
謎を解く鍵がフィボナッチ数列だったり黄金比だったり、どこかで聞いたことがあるトリビアが散りばめられており、読み手も一緒になって楽しめる。特にこの小説の表紙「モナ・リザ」の真の意味を知ったときはおおおおっと雄たけびをあげてしまったスゴ本。
ちと時代が古いが、無問題。アイガー北壁の難所、「神々のトラバース」を登攀中のクライマー二人が、奇妙な遺体を発見するところからお話が始まる。白骨化した下半身と、氷漬けになっていたため損われていない上半身。二人は下山後警察に通報するが口止めされる。なぜ―― ?
―― とラストまで引っ張る謎解きはお楽しみにとっておいて、スゴいのは登攀が始まってから。「息もつかせぬ迫力」は本書のためのもの。臨場感ありまくり、心拍数あがりまくり、危ないッて思わず目を閉じてしまう(もちろん読めなくなるがな)。
ミステリーとしての面白さだけでなく、その枠内に収まりきれないほどの知のウンチクがスゴい。初読のとき、ネタ元を理解できないものが大量にあったので、続けて再読。それでもやっぱり分からないもの多し。神学・言語学・文学・哲学・歴史学の知識があればもっと楽しめるんだろうが、わたしの場合、むしろ本書に教えられることが多かった。
「迷宮構造をもつ文書館を舞台にした殺人事件」を追いかけている自分自身が知の迷路に惑いこむ。衒学はシュミじゃないので分かったような気ができぬ。本書を上手に紹介できる人こそ、「教養がある」んだろうね。
無類の映画好きジョナサンがとり憑かれた魔物、その名はマックス・キャッスル。遺された彼の監督作品はどれもこれも、超絶技巧な映画―― ジョナサンは彼の究極映像を追い求めるのだが、それは悪夢の遍歴なのかも。あるいは、映画の地獄なのかも。
この主人公ジョナサンがウラヤマしい〜と思わない映画ファンはいないだろう。映画狂が昂ずるあまり古いながらも劇場を手に入れ、映画三昧の毎日。さらに、ベッドの上でカリスマ女流評論家から映画の理論的考察と濃厚なセックスの手ほどきを受け、助教授まで出世する。「映画で食っていく」なんて、映画好きなら誰しも夢想した未来。
映像美のディテールがまたスゴい。観てきたように緻密に描写されているから、読み手は「マックス・キャッスルの映画観てぇ〜!たとえ悪魔に魂を売ることになったとしても」と吼える…で、ラストの"究極の映像"に身もだえするに違いない。
この時代のキングは全読してたなぁ… 「どれか一つ」なら「シャイニング」あたりだろうが、「このミス」ランキングで「!」なのは、これ。怖いデ。amazonレビューはこんなカンジ。雪道の自動車事故で半身不随になった流行作家ポール・シェルダン、元看護婦の愛読者に助けられて一安心したのが大間違い、監禁されて「自分ひとりのために」小説を書けと脅迫されるのだ。キング自身の恐怖心に根ざすファン心理のおぞましさと狂気の極限を描いた力作。 なにがおぞましいかって言うと、この「愛読者」。「黒い家」に出てくる女もそうだけれど、「何考えているか分からない」うちは恐怖そのもので、分かると危険なもの。激昂している彼女が、無意識にネズミを捕まえ、その手が「turned to fist」するとこは何回も夢に出た。
結局人間が狂うのはカネだよな。ひょんなことから見つけた莫大な現金を山分けとする「シンプルなプラン」が、だんだんドロドロしはじめて、これっぽっちもシンプルでなくなって、血まみれのプランになるところが見どころ。増幅する悪夢と凶気に飲み込まれ、フツーの人間関係が狂っていく様は、淡々と書いている分、こわい。
「莫大なカネを偶然見つける」――同じ出だしながら、ぜんぜん違う方向へカッとぶ「血と暴力の国」[レビュー]は、好対照を成している。静と動、雪原と砂漠、血糊と血潮を対比して読むと面白いかも。
悪党の小説が好きだ。悪党パーカーもいいし、「ポップ1280」のニック、それから「Mr.クイン」。自分がやってることをキッチリ把握してて、最大の効果(犯行)を最小の努力で得る。先の2人は、どちらかというと、体を張ってヤるタイプだが、Mr.クインは違う。犯罪はビジネスで、計画を売るだけの「犯罪プランナー」。自分のポリシーを持ち、別にクールを気取るわけもなく、淡々と罠を仕掛ける、究極のアンチ・ヒーロー。
―― とはいうものの、物事が順調にいかないのが小説のいいところ。歯車が狂うときの対処のキレもクールだねぇ。犯罪指南書(心構え編)としても有用かと。
会社にたどりつくまでにエネルギーの半分がた浪費しているのは、実にバカバカしい。義務教育で「がまんをすること」の大切さを教え込まれたが、こんなところで役に立とうとは(嫌だあぁぁ)…
とはいうものの、いやしくもニッポンの社畜として、満員電車は避けて通れぬ。朝だけではない。終電ラッシュの方がタチ悪い。酔っ払って車内でお好み焼き(又はもんじゃ焼き)を作り出す人がいるからね(でも不思議だ、どんなに混んでいても、そこだけキッチリ空間ができるから)。
「座る技術」という本があるが、あれは初心者向け。日比谷線の「次の3列」「次の次の3列」をめぐる攻防や、東海道新幹線の「指定席車ドア→普通車座席」の反則技、次を待つフリをして発車間際に尻から入る超技がない―― っつーか、座るどころか、そもそも乗れないんだケド。あるいはホームからこぼれ落ちそうなんだケド。
そんな「満員電車」に真っ向勝負を挑んだのが、本書。そもそも満員電車とは何か? 満員電車をなくすことはできないか? と不可能に挑戦している。敵である「満員電車」の定義が面白い。愚直なまでに経済原則をあてはめている。満員電車とは、電車に乗りたい人が、快適に運べる適正人数を大幅に上回っていることから起こる事象で、需要が供給を圧倒している状態を指す満員電車となっている路線は、供給に対し需要が極端に多い。だから、満員電車をなくすには、供給を増やして需要を減らし、両者の均衡を保てるようにすればいい さらに、「満員電車の歴史は運賃抑制の歴史」という目の覚めるような仮説を立てている。要するに、電車は、その公共性の高さから、需給と価格バランスを無視した運賃に抑制されてきた。そのため、充分な供給を実現するために必要な資源を確保できず、満員電車は続いてきたという。
では、具体的にどうすればよいか? ここからがすごい。現在の軌道回路方式から、GPS・センサーマップマッチングによる信号システムへの変革や、車道のリバーシブルレーンにヒントを得た3線運行、タクシーのような深夜割増電車や24時間運転など、これでもかというぐらい怒涛のアイディアが開陳されている。
いちばん驚いたのが、総2階立て車両方式。1階と2階を階段で結ばず、各階独立した客室にする。扉も上下につけて床面積を2倍にするアイディア。もちろん、東海道線・横須賀線のグリーン車は2階建て車両なんだが、2階建てとはいえ2倍の収容能力を持つわけではない。両端部は1階で階段部分がデッドスペースなので床面積は1.4倍程度。おまけに扉が片側2しかないため、乗降時間長くかかるデメリットをもつそうな。
で、総2階建て電車、どうやって乗り降りするのかという素朴な疑問に、ブレークスルーのネタがッ→「駅のホームを2階建てにする」。イメージ図を見て噴いたね。ターミナル駅は2層構造のホーム、小駅なら2階用のタラップを設置する絵は、そういや銀河鉄道999のどっかで見たことある気が(惑星メーテル?)。
今ある技術でイノベーションを起こすものばかり。資金調達まで現実的だ。満員電車で困っている人数=首都圏で250万人で、片道あたり200円、往復を考えて年600回負担を考えると…
50年で満員電車をなくすことができると見込んでいる。50年!そんなにかかるのか、と思いきや、著者曰く、最長見積もりだという。
ふつう、商品やサービスの価格は、価値の高いものに高い値がつく。高い価値のものが欲しい人は、納得して対価を支払う。その一方で、節約したい人は安い方を選ぶ。着席は立ち席より、あきらかに価値が高い商品で、高い値付けがされていても納得できる。立ち席の値段が着席より低くなれば、体力に余力があり節約したい人なら立ち席を選ぶだろう。
しかし、現状は、着席と立ち席の値段差はなく、商品選択の余地はない。さらに、商品の生産・販売側の立場からしても、現在の値付けは矛盾している。着席サービスは立ち席に比べて、一人あたりの占有面積が広く、コストも余計にかかっている。だから高い値付けがされて当然なのだが、現状はそうなっていない。着席と立ち席は明らかに品質が異なり、かつ生産コストも異なるものに対して、同じ値付けというのはおかしくないか?──という論が延々と展開される。正直、「席」を商品とみなす発想は言われて気づいた。あるいは、満員電車を「ビジネスチャンス」と見なす発想はアタマガツンとやられた。基本じゃん!困っていること・あきらめていること・慣れてしまったことに「?」をぶつけるのがイノベーションだよね。
で、著者は、「ICカードで座席を引き出す仕組み」を提案する。ホラ、山手線の折りたたみ座席を思い出して欲しい。時間帯で引き出せるようになっているが、あれを、ICカードをかざすと個人用の席を倒せるような仕掛けにするそうな。
しかも、席料は一定額ではなく、混雑具合によりフレキシブルに変更されるようにすれば、高額を払ってまでは着席したくない人は途中から立つように誘導できると提案する。そのいっぽうで、高齢者・妊婦・体の不自由な方は必ず着席できるようにすることもきちんと考察している。
利用客にとってみれば、ずっと渇望していた一冊かもしれない。しかし、鉄道関係者にとってみれば定刻発車を達成するためにギリギリの努力をしているのに、さらに満員電車解消という課題が追いかけてくる一冊。定刻・乗車率・運賃、どれかのトレードオフをする時代なんだろうね。
完全にヤられた。憑かれたように読む、読む、読む。巻措く能わぬ面白さではなく、手に張り付いて離れないモノスゴさ。小説で徹夜するなんて、久しぶりだ。徹夜小説シリーズ([スゴ本]と[はてな])で太鼓判押されてたけど、ここまでスゴいとは… 抜群の構成力、絶妙な語り口、そして二重底、三重底の物語。
これは、陰謀と冒険と魔術と戦争と恋と情交と迷宮と血潮と邪教と食通と書痴と閉鎖空間とスタンド使いの話で、千夜一夜とハムナプトラとウィザードリィとネバーエンティングストーリーを足して2乗したぐらいの面白さ。そして、最後の、ホントに最後のページを読み終わって――――――驚け!
ただし、ネットで調べてはいけない。うんこがバラしているぞ。面白い物語を読みたいのなら、予備知識を一切絶って読むべし(まちがいないから)。それから、文庫版の3分冊で取り組むなら、3巻全部を確保しておくこと。でないと深夜に「もっと続きをーッ」と誰かさんのように悶え苦しむことになる。
そして、読むなら深夜!明日の予定がない夜に読むべし。まちがっても会社がある日に読んではいけない。翌朝になって、初めて「君が望む永遠」の第一章を終わらせたような気分になるはず。
優れた物語は語りから語り辺へ伝えられる。不死の、自己の永続化。恒久に譚(かた)られて、そして生きる物語として永らえる。そう、まるで、歴史のメタファーのように――身も心もトリコになる物語を、どうぞ。
フォーク、ナイフ、クリップ、ジッパー、プルトップなど、身近な日用品について、「なぜそのカタチを成しているのか」を執拗に追求する。日ごろ、あたりまえに使っているモノが、実は現在のカタチに行き着くまでに途方も無い試行錯誤を経たものだったことに気づかされる。
たとえば目の前のフォーク。そのカタチ・大きさになるまで延々と進化の歴史がある。最初は肉を適当な大きさに切り裂くナイフだけたったそうな。それが肉が動かないように押さえつけるために、もう一本のナイフを用いるようになる。ただ、(やってみれば分かるが)ナイフで押さえつけると肉がクルクル回ってしまって不便だ。その結果、又の分かれたモノ:フォークが誕生する。
それなら、フォークは2本歯で事足りるはずだが、どっこい2本だけだと突き刺した食べ物が滑り落ちてしまう。あるいは小さい欠片は歯の隙間からこぼれ落ちるということで、歯が3本になる―― とあるのだが、残念なことに、歯が3本から4本になった理由まで明かされていない(後で調べたところ、パスタをフォークで食べるために3→4本になったそうな[はてな])。5本や6本歯のフォークもあるにはあるが、装飾のためであって、(これもやってみれば分かるが)今度は突き刺した食べ物が抜き取りにくいという弊害が出てくる。無理なく口に入る幅と当時の冶金技術も相まって、フォークの歴史を考える。
それだけではない。今度は、フォークのカタチが食卓に与えた影響力も考察される。つまり、フォークの歯が増えたことにより、フォークを突き刺す役割から「乗せて食べる」道具として使い出すようになる。さらに、フォークをナイフのように扱い(煮野菜を切るとか)、ナイフが食卓から駆逐されはじめる。
今は見かけないが、「左端の歯だけ幅広のフォーク」があった。なぜ一番左の歯だけ幅があるのか、ずっと疑問に思っていた――これはカッティング・タイン(切断歯)だそうな。つまり、食事におけるナイフの役割をほとんどフォークが代行するようになったとき、軟弱な歯では曲がってしまったため、左端をナイフのように加工したという。もちろん子どもの口に入れるフォークだからナイフのように切れはしないが、その名残りなんだなーと思うと感慨深い。
フォークだけでもお腹一杯になりそうだが、こんな調子でデザインの本質に迫る。実は日用品にとどまらない。飛行機の翼は丸み(キャンバー)があるのにエアロプレイン(plane:平らな板)と呼ぶ理由や、ビックマックの容器がなぜ発泡ポリエチレンから紙になったのかは、デザインと社会の相互作用がよく見える。
モノの歴史をさかのぼって調べれば、どの時代のどんなモノにも、(当時からみた)欠点が必ず存在する。そうした欠点を識別・排除することで、そのモノの形は決まったり修正されたりしている。何を欠点と見なすかは、時代によっても異なるし、文化や社会との相互作用も影響する。モノそのものへの要求を全部満たすデザインなんてないと言い切る。だからこそ、モノは進化しつづけるのだと。
本書は、[東大教師が新入生にすすめる100冊]にランキングされている好著…なんだけれど、いかんせんamazonで「せどらー」の暗躍によりトンでもない値がついている──確かにデザイナーにとってはバイブル級の一冊だけど、図書館でどうぞ。

 

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